
目次
まだ決まっていない話
宿に着いたのは、夜の九時を過ぎていた。
夕食は、電車の中で買ったサンドイッチで済ませた。味はほとんど覚えていない。仕事のメールに追われながら、私は何度も同じ文面を開いては閉じていた。
白石さんからのメールだった。
件名は、「占いコーナーの件」。
白石さんは、女性向け週刊誌の編集に関わっている人だった。以前、私の鑑定文を読んで、「言葉の置き方が面白い」と言ってくれた。その一言は、自分でも思っていた以上に、私の中に残っていた。
メールには、こう書かれていた。
現在、弊誌の小さな占いコーナーで、担当者の交代に伴い、新しい書き手を探しています。まだ正式に決まった話ではありませんが、私としては、水瀬さんをご紹介できないかと考えています。
ただ、週刊誌という媒体上、もう少し短い言葉で読者に届く形も見てみたいという話が出ています。もし可能でしたら、追加でいくつか短めの鑑定例を拝見できますでしょうか。
ありがたい話だった。
そう思うべきだった。
けれど私の目は、何度も同じところに戻った。
まだ正式に決まった話ではありませんが。
もう少し短い言葉で読者に届く形も。
白石さんは、ただ丁寧に状況を伝えてくれているだけなのだと思う。期待を持たせすぎないように、編集部の事情を正直に書いてくれたのだろう。
それなのに私は、その二つの言葉の中に、すでに断られる未来を探していた。
白石さんは、まだ何もしていない。
ただ、丁寧なメールをくれただけだった。
それなのに私は、その言葉をそのまま受け取れなかった。
面白いと言ってくれた人ほど、あとで遠くなる。
必要だと言ってくれた人ほど、いつの間にか言葉が薄くなる。
白石さんは、その人たちではない。
それでも私は、彼のメールの中に、まだ起きてもいない拒絶を探していた。
今ある言葉ではなく、いつか遠ざかるかもしれない背中を先に見ていた。
その日は鑑定と細かな連絡に追われ、返信も追加の鑑定文もほとんど進まなかった。迷っているうちに時間だけが過ぎ、気づけば私は、前に泊まったあの宿に電話をしていた。
「急なのですが、今夜から二泊、空いていますか」
主人は、少しも驚かない声で答えた。
「空いております」
それだけだった。
理由はいくつも後からつけられた。
静かな場所で、追加の鑑定文を書くため。大きな仕事になるかもしれないから、ちゃんと向き合うため。日常から少し離れて、言葉を整えるため。
どれも嘘ではなかった。
けれど本当は、前にこの宿で聞いた声が、まだ私の中で終わっていなかったのだと思う。
何を話すかを考えなくていい。
相手を変えようとしなくていい。
導こうとしなくていい。
ただ見なさい。
愛と感謝と敬意をもって、見なさい。
それは、誰かに言われた言葉というより、あの部屋で、私の奥から静かに浮かび上がってきた声だった。
そのときは、わかったような気がした。
けれど日常に戻ってみると、それがどれほど難しいことなのか、すぐに思い知らされた。
私は人を見ているつもりで、いつも次の言葉を探していた。
嫌われない言葉。重くならない言葉。浅く見えず、けれど深すぎもしない言葉。
それは、相手を見ているのではなく、相手の中に映る自分を見張っているだけだったのかもしれない。
宿の玄関を開けると、涼しい空気が流れてきた。古い木の匂いと、どこか湿った畳の匂い。遠くで風鈴が小さく鳴っていた。
奥のほうから、主人が出てきた。
「いらっしゃいませ」
前と同じ、低く静かな声だった。
「遅くにすみません」
「お疲れさまでした」
主人はそれ以上、何も聞かなかった。
どうして来たのか。何があったのか。前回のあと、何を考えていたのか。
この人は、こちらが言葉を探しているときほど、何も聞かない。
聞かれないことで、逃げ道が残される。けれど同時に、自分の中にあるものをごまかせなくなる。
私は部屋に荷物を置き、ノートパソコンを開いた。
画面には、白石さんへ送る予定の鑑定文があった。
短く。
わかりやすく。
週刊誌の読者に届くように。
白石さんのメールには、そこまで書かれていたわけではない。けれど、そう言われている気がした。
今日のあなたは、過去の不安に引っ張られすぎているかもしれません。
そこまで打って、手が止まった。
これは読者に向けた言葉なのか。
それとも、私自身に向けた言葉なのか。
消した。
もう一度、打ち直す。
今週は、目の前の小さな選択を大切にしてください。
悪くない。けれど、どこか薄い。
白石さんは、これをどう読むだろう。編集長は、どう判断するだろう。週刊誌の読者は、立ち止まってくれるだろうか。
私は、まだ見ぬ読者に向けて書いているはずだった。けれど実際には、白石さんの顔色を思い浮かべていた。
その夜、原稿はほとんど進まなかった。
布団に入っても眠りは浅かった。目を閉じると、白石さんのメールの文面が浮かんだ。
まだ正式に決まった話ではありませんが。
胸の奥が、小さく固くなる。
私は、何を怖がっているのだろう。
選ばれないことだろうか。
白石さんに失望されることだろうか。
それとも、また誰かの言葉を信じてしまう自分だろうか。
答えは出なかった。
ただ、暗い部屋の中で、あの声がもう一度聞こえた気がした。
ただ見なさい。
私は心の中で小さく答えた。
見たいと思っている。
けれど、何を見ているのかが、まだわからない。
そのまま私は、浅い眠りの中へ落ちていった。
一口だけのパン
翌朝、いつもより早く目が覚めた。
よく眠れたわけではなかった。身体は重い。けれど、食堂へ降りなければならない気がした。
顔を洗い、ノートパソコンとファイルを持って階段を下りる。
食堂では、母親と娘らしい二人が、すでに窓際の席に座っていた。
一瞬、私は足を止めた。
女の子は、小学校高学年くらいに見えた。肩のあたりで切りそろえた髪。鉛筆を握った指が、少し力んでいる。
母親の前には、問題集が何冊も積まれていた。赤い付箋の貼られたテキスト。折り目のついたプリント。透明なファイルに入った成績表らしい紙。
テーブルには、朝食の皿も並んでいた。焼きたてのパン、卵料理、小さなサラダ、オレンジジュース。
けれど女の子のパンには、一口だけかじった跡があるだけだった。ジュースだけが、半分ほど減っている。
「おはようございます」
私は、なるべく自然に声をかけた。
母親が顔を上げた。
「おはようございます」
丁寧な返事だった。
女の子も少し遅れて、小さく頭を下げた。
「おはようございます」
その声は礼儀正しかった。けれど、そこには薄い膜のようなものがあった。
見ないでください。
関わらないでください。
今は、それどころではないんです。
そう言われたような気がした。
私は、少し離れた席に座った。
食堂には、朝食が静かに用意されていた。私はスープとパンを取り、自分の席に戻る。主人は少し離れたところでコーヒーを淹れていた。
「せっかく一週間ここに来たんだから、夏のあいだに少し戻そうね」
母親の声は穏やかだった。
けれどその「戻そうね」という言葉に、旅行ではない重さがあった。
「焦らなくていいからね」
「朝は、計算と漢字だけでいいから。頭を慣らすだけ。ね」
言葉は優しかった。けれど、その優しさは、優しくあろうとしている声だった。
「昨日の分を少し戻せば大丈夫。真央ならできるから」
真央。
さっきまで知らなかった名前が、私の中に入ってきた。
真央ちゃんは何も言わず、計算ドリルに目を落とした。鉛筆の先が紙の上を動く。けれど、その動きは少しぎこちなかった。
問題を見ているようで、母親の声を聞いていた。母親の表情を気にしていた。鉛筆を動かしながら、次に間違えたらどうなるかを、先に見ているようだった。
あんなふうに言葉をかけられたら、緊張して問題なんて解けない。
お母さんがいないほうが、この子は朝の勉強もちゃんとできるのではないか。パンだって、もう少し食べられるのではないか。
そこまで考えて、私は手元のパンを見た。
まただ、と思った。
私はもう、母親を責める言葉を用意している。
ただ見たいと思ったのに。気づけば私は、もう誰が悪いのかを決めようとしていた。
「真央、ここのくり上がり、もう一度見て」
母親の声は、大きくはなかった。
「大丈夫。落ち着いてやればできるから」
落ち着いて。
その言葉が、真央ちゃんをさらに落ち着かなくさせているように見えた。
しばらくして、母親が鞄の中を探り始めた。
「あれ、昨日の漢字プリント、部屋に置いてきたかもしれない」
真央ちゃんは顔を上げた。
「取ってこようか」
「いいの。お母さんが行くから。計算、ここまで進めておいて」
母親はそう言って、席を立った。
足音が遠ざかると、食堂の中に、小さな空白ができた。
私は少し迷った。
声をかけるべきではない。
そう思った。
けれど、真央ちゃんの前に置かれたパンと、細く握られた鉛筆の指を見ていると、何も言わないまま座っていることが、どうしてもできなかった。
「あの」
真央ちゃんが、驚いたように顔を上げた。
私は、できるだけやわらかく笑った。
「朝から、一生懸命勉強していて偉いね」
真央ちゃんは、少し困ったように目を伏せた。
「偉くないです」
予想していなかった返事だった。
「そう?」
「はい」
真央ちゃんは、鉛筆の先を見つめたまま、小さく言った。
「お母さんが、悲しそうになるから」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが小さく鳴った。
私は占いをするとき、ときどき、相談者の言葉の奥に、その人のものではない重さが混じっているのを感じることがある。
本人の願いのようで、誰かの期待。
本人の不安のようで、ずっと前から家の中にあった沈黙。
真央ちゃんの声には、それがあった。
この子は、自分の成績を怖がっているだけではない。
母親の顔を怖がっている。
母親が悲しむことを、自分の失敗のように感じている。
私は何かを言おうとした。
「真央ちゃん、それは――」
そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
母親が戻ってきた。
手には、漢字プリントの束があった。
私は言葉を飲み込んだ。
母親は、私たちの間に流れた空気に気づいたのか、気づかなかったのか、少しだけ目を細めた。
「すみません、お待たせ」
その言葉は真央ちゃんに向けられていた。けれど、私にも向けられているように感じた。
私は何か言いかけた。
朝食くらい、ゆっくり食べさせてあげてもいいのではないか。
お母さんの不安が、この子にそのまま伝わっているのではないか。
けれど、その言葉はどれも、母親を責める形をしていた。
私は、また飲み込んだ。
食事を終えると、私は主人に軽く頭を下げて食堂を出た。
部屋に戻るなり、机の前に座る。原稿を書こうとした。けれど画面を見る前に、頭の中では別の文章がいくつも浮かんでいた。
お母さん、あの子は十分頑張っています。
違う。
それでは正論すぎる。
お母さんの不安が、真央ちゃんに伝わってしまっているのかもしれません。
これもだめだ。
そんな言い方をされたら、責められたと感じるかもしれない。
そもそも私は、あの親子の何を知っているのだろう。
何か言わなければいけない気がしていた。
真央ちゃんを守らなければいけない気がしていた。
でも、何を言えばいいのかわからない。
正しい言葉はいくつも浮かぶ。けれど正しい言葉ほど、相手を追い詰めることがある。
優しい言い方に変えようとしても、その奥にあるものは変わらない。
あなたのやり方は間違っています。
どんなに柔らかく包んでも、私が言おうとしていることは、結局そこへ戻ってしまう。
あの主人なら、何と言うだろう。
そう思った瞬間、胸の奥のざわめきが少しだけ形を変えた。
主人なら、すぐには言わない。
たぶん、母親を責めない。
真央ちゃんだけをかばうこともしない。
ただ、見る。
でも、見るだけで何が変わるのだろう。
私は、昼食の時間になったら、主人にこう言おうと決めた。
「お昼、ご一緒してもいいですか」
それが、今の私に言える、いちばん短い言葉だった。
責めたいのですか
昼食の時間になっても、私はすぐには部屋を出られなかった。
パソコンの画面には、白紙に近い鑑定文が残っている。書かなければいけない。そう思うほど、言葉は遠ざかっていった。
食堂に入ると、母娘の姿はなかった。
主人だけが、カウンターの奥で湯のみを静かに並べていた。
私は少し迷ってから、声をかけた。
「お昼、ご一緒してもいいですか」
言ってから、少し変な頼み方だと思った。
宿の主人に、昼食を一緒にしてほしいと頼む。普通なら、距離が近すぎるかもしれない。
けれど主人は、驚いた様子もなく、小さくうなずいた。
「どうぞ」
私は、カウンターに近い席に座った。
しばらくして、主人が昼食を運んできた。冷たいそうめんと、小さな野菜の天ぷら。青じそとみょうがの香りが、ふっと立ち上がる。
主人は、向かいではなく、少し斜めの席に座った。
真正面ではない。けれど、遠くもない。
その距離が、この人らしいと思った。
主人は、何も聞かなかった。
私は、その沈黙に背中を押されるように口を開いた。
「今朝のことなんですけど」
主人は、静かにこちらを見た。
「あの子が……真央ちゃんが、言ったんです」
そこまで言って、一度言葉を切った。
「お母さんが席を外したときに、私、声をかけたんです。朝から一生懸命勉強していて偉いねって」
主人は、うなずいた。
「そしたら、偉くないですって」
私は箸を置いた。
「お母さんが、悲しそうになるからって」
言い終えると、食堂の音が少し遠くなった。
蝉の声。扇風機の低い音。器の中で、そうめんの氷が小さく鳴る音。
主人は、すぐには何も言わなかった。
その沈黙が、私には少しもどかしかった。
「私、何か言ったほうがいいんじゃないかと思って」
声が少し早くなる。
「あんなふうに朝から勉強して、パンも一口しか食べていなくて。でもお母さんは、優しく励ましているつもりなんです。怒鳴っているわけではありません。でも、真央ちゃんは全然安心していないんです」
主人は、ただ聞いていた。
「朝食くらい勉強から離したほうがいいとか、真央ちゃんはもう十分頑張っているとか、お母さんの不安が伝わっているんじゃないかとか……でも、何を言っても、責めているみたいになる気がするんです」
主人は、ゆっくり湯のみを持ち上げた。
「責めたいのですか」
その声は、少しも鋭くなかった。それなのに、胸の奥をまっすぐ押されたような気がした。
「責めたいわけではありません」
私はすぐに答えた。
けれど、その答えは自分でも少し早すぎると思った。
主人は何も言わなかった。
「責めたいわけでは、ないと思います」
「では、何をしたいのでしょう」
私は黙った。
真央ちゃんを助けたい。守りたい。母親に気づいてほしい。
どれも本当だった。
でも、その奥に、もっと硬いものがあった。
私は、母親に「間違っている」と言いたいのかもしれない。
「わからないです」
私は言った。
「真央ちゃんを守りたいと思っています。でも、それが本当に真央ちゃんのためなのか、自分があのお母さんに腹を立てているだけなのか、わからなくなってきました」
主人は、静かにうなずいた。
「少なくとも、ご自分の中に混じっているものを見ようとしておられます」
「混じっているもの……」
「怒り。焦り。正しさ。過去の記憶。相手を変えたいという思い。そういうものが濁ったまま言葉になると、相手に届く前に、相手を押してしまいます」
私は、朝から考えていた言葉を思い出した。
お母さん、真央ちゃんは十分頑張っています。
朝食くらい、勉強から離してあげてください。
お母さんの不安が、あの子に伝わっています。
たしかに、それらは真央ちゃんを守る言葉のようでいて、母親を押す言葉だった。
「では、私は何も言わないほうがいいんでしょうか」
主人は、うなずきも首振りもしなかった。
「水瀬さんは、タロットをなさるのでしょう」
急にそう言われて、私は少し驚いた。
「はい」
「一度、カードを置いてみてはいかがですか」
「お母さんに、ですか」
「はい」
「でも、それは……あの人を変えるためになってしまいませんか」
主人は、静かにこちらを見た。
「変えるためではありません」
「では、何のために」
「水瀬さんが、あの方に何を見ているのか。それが少し見えるかもしれません」
私は、言葉を失った。
私は母親を見ているつもりだった。
真央ちゃんを苦しめている母親を。優しい言葉で圧をかけてしまう母親を。娘の朝食を見ず、計算ドリルを見ている母親を。
けれど主人は、そこではないものを見ているようだった。
「カードを置くなら、カウンターをお使いください」
昼食の終わりに、主人がそう言った。
「真央さんも、お母さまの姿が見えるほうがよいでしょう。お母さまも、真央さんの姿が見えるほうがよいと思います」
その言葉に、私は少し驚いた。
「離したほうがいいのかと思っていました」
主人は、湯のみを置いたまま言った。
「離れなければ見えないこともあります。近くにいるからこそ見えることもあります」
私は、朝の真央ちゃんの顔を思い出した。
お母さんが、悲しそうになるから。
真央ちゃんは、母親を見ていた。
母親は、真央ちゃんを見ているつもりで、何を見ているのだろう。
昼食のあと、私はしばらく食堂に残っていた。
主人の言葉が、まだ耳に残っている。
母親を変えるためではなく。真央ちゃんを救うためでもなく。私が、あの人に何を見ているのかを知るため。
三枚のカード
しばらくして、母親と真央ちゃんが食堂に戻ってきた。
真央ちゃんは、問題集とノートを抱えている。母親は、透明のファイルと筆箱を持っていた。
二人は、窓際の席に腰を下ろした。
「午後は、ここで少しやろうか。部屋だと眠くなっちゃうものね」
母親の声は穏やかだった。
けれど真央ちゃんの肩は、やはり少し上がっていた。
私は息を吸った。
今なら、声をかけられるかもしれない。
立ち上がろうとして、やめた。
もう一度、息を吸った。
何を話すかを考えなくていい。
胸の奥で、あの声がかすかに響いた。
けれど、何も考えずに声をかけることなど、私にはまだできなかった。
私は席を立ち、二人のテーブルへ近づいた。
「あの。少しだけ、よろしいですか」
母親が顔を上げた。
「はい」
丁寧な返事だった。けれど、やはりどこかに壁があった。
私は少しぎこちなく笑った。
「私、タロットの占い師をしているんです」
言った瞬間、自分でも不自然だと思った。
「もしよければ、少し見てみませんか。無料で大丈夫ですので」
母親は困ったように視線を落とした。
「でも……娘が勉強しているのに、私がそんな、遊びみたいなことをしているわけには」
遊び。
その言葉に、私は少しだけ背筋を伸ばした。
「遊びではないんです」
思っていたより、はっきりした声が出た。
私は慌てて、声をやわらげた。
「未来を当てるというより、今の状態を見るものに近いと思っています。先のことを考えるほど、今の心が散ってしまうことがあります。何をどうすればいいかの前に、まず今、どこに力が入っているのかを見るだけでも、少し変わることがあるんです」
母親は、まだ迷っているようだった。
私は言葉を探した。
「娘さんのために、今いちばん大事なものが何なのか。少し一緒に見てみるだけでも、意味があるかもしれません」
言った瞬間、自分の胸の奥に小さな濁りが走った。
娘さんのため。
そう言えば、この人は耳を傾ける。私はそれを、どこかでわかっていて言ったのかもしれない。
母親の表情が、わずかに変わった。
「娘のために、ですか」
「はい」
その返事は、嘘ではなかった。
けれど、すべてでもなかった。
母親は真央ちゃんを見た。
「……少しだけなら」
母親が言った。
「真央、ここ、続けていられる?」
「うん」
真央ちゃんは、すぐにうなずいた。その早さが、また少しだけ胸に残った。
そのとき、カウンターの奥から主人の声がした。
「こちらをお使いください」
振り向くと、主人がカウンターの一角に白い布を敷いていた。
まるで、最初からそうなることがわかっていたようだった。
私はバッグからタロットカードを取り出した。
母親は、カウンターの椅子に腰を下ろした。
真央ちゃんの席からは、母親の横顔が見える。母親からも、少し振り向けば真央ちゃんの姿が見える。
近すぎず、遠すぎない。
主人の言った通りの距離だった。
そのとき、ふわりと甘い香りがした。
「ちょうど焼き上がりましたので」
主人が、薄く焼かれたクッキーを持ってきた。
「コーヒーも、お淹れします」
真央ちゃんが、テーブルのほうからクッキーをちらりと見た。
その視線はほんの一瞬だった。けれど私は、見逃さなかった。
「真央さんにも、あとでお持ちします」
主人がそう言うと、真央ちゃんは少し驚いたように顔を上げた。
「……ありがとうございます」
母親は何か言いかけて、やめた。
勉強中だから。
甘いものはあとで。
そんな言葉が、口元まで来ていたのかもしれない。
その何も言わなかったことが、今は小さな変化のように感じられた。
私はカードを切り、三枚を伏せたまま布の上に並べた。
「未来を決めるためではなく、今の状態を見るためです」
一枚目。
「今、表に出ている不安」
二枚目。
「その奥にあるもの」
三枚目。
「今、戻る場所」
私は、一枚目をめくった。
ソードの九。
ベッドに座り、顔を覆う人物。暗い背景に並ぶ剣。
「これは、頭の中で不安が繰り返されているときに出ることが多いカードです」
母親の表情が、わずかにこわばった。
「まだ起きていないことを、何度も考えてしまう。考えれば考えるほど、心も身体も休まらなくなる」
母親は、コーヒーカップの縁に手を触れた。けれど、飲まなかった。
「……心配しない親なんて、いないと思います」
その声には、少しだけ防御があった。
「はい。心配することが悪いわけではありません。ただ、このカードは、心配が今の力を奪っているときに出ることがあります」
私は二枚目をめくった。
カップの五。
黒い衣をまとった人物が、倒れた杯を見つめている。背後には、まだ立っている杯がある。
「これは、過去の後悔や、失ったものに心が向いているカードです」
そう言いながら、私の胸の奥が小さく揺れた。
それは、目の前の母親だけのことではなかった。
白石さんのメールを前に、まだ起きていない拒絶を見ていた私。過去に遠ざかっていった人たちを、今の白石さんに重ねていた私。
私は一瞬、言葉を失いかけた。
「娘さんの未来を心配しているようで、もしかすると、その奥に、お母さまご自身の過去の後悔があるのかもしれません」
母親の指が、カップの取っ手から離れた。
「私の、過去ですか」
母親は言いかけて、口を閉じた。
真央ちゃんの鉛筆の音が、少し止まった。
母親はそれに気づいたのか、ふっと横を見た。真央ちゃんは慌てたように、また問題集に目を落とした。
私は三枚目をめくった。
節制。
水を移し替える天使。片足は水に、もう片足は地に触れている。
「これは、整えるカードです」
私は言った。
「どちらかに振り切るのではなく、混ぜる。急がず、少しずつ流れを戻していく」
母親は、じっとカードを見ていた。
「受験をやめるとか、勉強しなくていいとか、そういう話ではありません。でも、未来を心配する力ばかりが強くなると、今の娘さんを見る力が弱くなってしまうことがあります」
言い終えたあと、胸の奥が小さくざわついた。
母親に向けた言葉のはずなのに、そのまま私自身にも返ってきた気がした。
「今、戻る場所は、たぶん、とても小さいところです」
「小さいところ?」
「はい。たとえば、今食べること。今休むこと。今、一問を見ること。今、娘さんの顔を見ること」
母親の表情が、少しだけ揺れた。
「顔……」
「はい。結果の前に、今ここにいる娘さんを見ること。そこに戻る必要があるのかもしれません」
母親は何も言わなかった。
ただ、真央ちゃんのほうを見た。
その視線に気づいた真央ちゃんが、少しだけ顔を上げる。
二人の目が合った。
ほんの一瞬だった。
私は、その一瞬を見ていた。
そして、ようやく思った。
私はこの人のことを、まだ何も知らない。
この人が何を恐れているのか。なぜ、あれほど未来に急がされているのか。真央ちゃんの成績表の向こうに、何を見ているのか。
何も知らないまま、私はこの人を責めようとしていた。
母親は、しばらくしてから、ようやくコーヒーに口をつけた。
「……不思議ですね」
小さな声だった。
「娘のことを見てもらうつもりだったのに、私のことばかり言われている気がします」
私は、すぐには答えられなかった。
そのとき、主人が静かに言った。
「見えなくなることは、誰にでもあります」
母親が主人を見た。
「大切に思うものほど、失うことが怖くなります。怖くなると、人は今あるものではなく、失われるかもしれないものを見始めます」
食堂が静かになった。
蝉の声だけが、遠くから重なって聞こえている。
見えなくなること
母親は、席を立ちながら、ふと口元だけでつぶやいた。
「そんなに、見えていないんでしょうか」
独り言のようにも、私に確かめているようにも聞こえた。
私はすぐには答えられなかった。
その問いが、私にも向けられている気がしたからだ。
母親は、真央ちゃんの席へ戻った。
真央ちゃんがノートを指差す。
「お母さん、ここ、これでいいの?」
母親は、いつものようにすぐ赤を入れようとして、手を止めた。
「……うん。合ってると思う」
真央ちゃんは、少し驚いたように母親を見た。
「ほんと?」
「うん。ちゃんとできてる」
その声は、まだ少し硬かった。けれど、さっきまでの張りつめた硬さとは違っていた。
真央ちゃんは、ほっとしたように目を伏せた。
席には、主人が置いたクッキーの小皿があった。
真央ちゃんは問題集を見ながら、ちらりとクッキーを見た。けれど、手を伸ばさなかった。
母親もそれに気づいたらしい。
一瞬、何かを言いかけた。
でも、母親は言わなかった。
かわりに、少しだけ間を置いて言った。
「食べてもいいよ」
真央ちゃんは、また驚いたように顔を上げた。
「いいの?」
「うん。せっかく出していただいたんだから」
真央ちゃんは、そっとクッキーを一枚取った。
小さくかじる。
そのとき、真央ちゃんの顔が、ほんの少しだけほどけた。
笑った、とまでは言えない。けれど、朝からずっと固まっていた頬が、少しだけやわらいだ。
私はその顔を見て、胸の奥が静かにゆるむのを感じた。
変わったのかもしれない。
少しだけでも。
そう思って、私はタロットカードを箱に戻し、部屋へ戻った。
けれど原稿は開けなかった。
三枚のカードの絵が、まだ胸の奥に残っていた。
少し横になったつもりが、いつの間にか眠っていた。
目が覚めると、部屋の光は夕方の色に変わっていた。
顔を洗い、食堂へ降りる。
母親の声には、また焦りが戻っていた。
「あと一ページだけやろうか。夕食までにここまで終わらせておけば、夜は少し楽になるから」
声は穏やかだった。
けれど、その優しさの底に、不安が張っていた。
真央ちゃんの肩は、また少し上がっている。
昼のあの一瞬は、たしかにあった。クッキーを食べる真央ちゃん。それを黙って見ていた母親。少しだけほどけた空気。
でも、今はまた戻っている。
人は、一度気づいたからといって、すぐに変われるわけではない。
母親もきっと、変わろうとしている。真央ちゃんを見ようとしている。優しくしようとしている。
けれど、心の奥にある不安は、そんなに簡単には静まらない。
私は、昼に自分が感じた安心を思い出した。
大丈夫かもしれない。
少し変わったのかもしれない。
そう思ったのは、私のほうの願いだったのかもしれない。
私はまた、見たいものを見ていたのだろうか。
桃のコンポート
夕食後、主人が小さな器を三つ、カウンターに並べた。
「よろしければ、少しだけ」
器の中には、薄い琥珀色のシロップに浸かった桃が入っていた。白桃の果肉は、夜の灯りを吸ったように淡く透けている。
「桃のコンポートです」
私と母親と真央ちゃんは、いつの間にか三人並んでカウンターに座っていた。真央ちゃんが真ん中。その右に母親。左に私。
「きれい……」
真央ちゃんが、思わず小さく言った。
その声は、勉強の話をしているときとは少し違っていた。年相応の、柔らかい声だった。
母親が、ほんの一瞬だけ真央ちゃんを見た。
「食べていいよ」
そう言ってから、少しだけ苦笑した。
「デザートなんだから」
真央ちゃんは、ほっとしたように桃をすくった。口に入れると、ほんの少し目を細める。
「桃は」
主人が静かに言った。
「煮ているときより、冷めていくときに味が入ります」
母親が、器から顔を上げた。
「冷めるときに、ですか」
「はい。火にかけているあいだは、まだ中まで落ち着きません。火から下ろして、ゆっくり冷めていくあいだに、シロップが果肉に入っていきます」
主人の声は、料理の説明をしているだけのようだった。
「熱いときにも、もちろん変わります。けれど、強く火を入れすぎると崩れてしまいます。大切なのは、火を入れる時間と、冷ます時間の加減です」
母親の手が、器の横で止まった。
「人も、力を入れられている最中には、なかなか受け取れないことがあります」
食堂が静かになった。
外では、夜の虫の声がし始めていた。昼の蝉とは違う、細く遠い音だった。
「少し力が抜けたときに、ようやく届く言葉もあります」
母親は、黙っていた。
やがて、小さく息を吸った。
「昼間、言われたことを、少し考えていました」
主人は何も言わず、ただ母親を見た。
「大切に思うものほど、失うことが怖くなるって。怖くなると、今あるものではなく、失われるかもしれないものを見始めるって」
母親は、真央ちゃんが隣にいることを気にしているようだった。言葉を選びながら、それでも止められないように続けた。
「私は……この子の幸せを考えているんです」
その声は、少し震えていた。
「ただ勉強させたいわけじゃありません。いい学校に入れば全部うまくいくなんて、そんな単純なことを思っているわけでもありません。でも、選べる道が多いほうがいいじゃないですか。あとで、あのときもっとやっておけばよかったって、この子に思ってほしくないんです」
真央ちゃんのスプーンが止まった。
「私は、この子を追い詰めたいわけじゃないんです。この子の幸せを一生懸命考えているんです。それなのに……どうして私が悪いみたいになるんですか」
食堂の空気が、静かに張りつめた。
私は、何か言わなければと思った。
違うんです。
誰もお母さんを責めたいわけではありません。
そんな言葉が浮かんだ。
でも、どれも違った。
今、私が言えば、また母親を押してしまう気がした。
主人は、母親を責めることも、なだめることもしなかった。
ただ、しばらく沈黙したあとで、静かに言った。
「悪い、というお話ではありません」
母親は顔を上げた。
「では、何なんですか」
声にはまだ震えが残っていた。
「苦しい、というお話だと思います」
母親の表情が止まった。
「お母さまが、苦しいのだと思います」
その一言で、母親の目の奥が揺れた。
真央ちゃんが母親を見た。
「お母さん……?」
母親は、慌てて顔をそらした。
「大丈夫」
その声は、大丈夫ではない人の声だった。
しばらくして、母親は小さく言った。
「ここに来れば、少し流れが変わるかもしれないって……聞いたんです」
私は、思わず母親を見た。
「知り合いが、前にここに泊まって。帰ってから、ずっと悩んでいたことが少し動いたって言っていました。運が良くなる宿だなんて、そんな言い方をして」
母親は、少しだけ苦笑した。
「私は、そういう話を信じて来たわけじゃありません。ただ、夏の間にどこか静かな場所で勉強させるなら、ここがいいかもしれないと思って。少しでも、この子にいい流れが来るならって」
その言葉を聞いて、私は初めて気づいた。
この人もまた、何かにすがりたい気持ちを隠して、ここに来ていたのだ。
主人は、静かにうなずいた。
「流れを変えたいのですね」
母親は、何も答えなかった。
答えないことが、答えのようだった。
主人は、少し間を置いて言った。
「よろしければ、少し奥で休まれますか」
母親は顔を上げた。
「奥……ですか」
「あの……それが、その、聞いていたものなんでしょうか」
主人は、はっきりとは答えなかった。
「何かを変える場所ではありません。ただ、静かに、ご自分の声を聞くための部屋です」
母親は黙った。
真央ちゃんも、器を持ったまま、母親と主人を交互に見ていた。
「でも、真央は……」
「真央さんはこちらでお茶を飲んでいてください。すぐに戻れます」
真央ちゃんは、小さくうなずいた。
けれど母親は、まだ迷っていた。
そして、ふと私を見た。
昼間、タロットをしていたときと同じ目だった。
責められたくない。
でも、ひとりでは受け止められない。
そんな目だった。
「水瀬さんも……一緒に来ていただけますか」
私は、思わず息を止めた。
「私が、ですか」
「はい。すみません。でも……少し、怖くて」
私が立ち会っていいのだろうか。
私はまだ、この母親をちゃんと見られていない。真央ちゃんを守りたいと思いながら、母親を責めていた。
けれど、母親は私にいてほしいと言った。
助けてほしい、ではない。
正してほしい、でもない。
ただ、一緒に来てほしい。
主人が私を見た。
「水瀬さんがよろしければ」
胸の奥で、あの声を聞いた。
ただ見なさい。
私は、小さくうなずいた。
「私でよければ」
母親は、ほっとしたように息を吐いた。
掲示板の前の子
母親が席を立つ。
私も、そのあとに続いた。
主人は廊下の奥へ進み、古い階段を上がった。
真央ちゃんのいる食堂の気配と、桃の甘い香りが、少しずつ遠ざかっていく。
二階の廊下の突き当たりには、藍色の布が垂れていた。
前に来たとき、カーテンだと思った古い布だった。
主人がその布を静かに横へ払うと、その奥には、ほとんど何もない部屋があった。
余計な家具も、飾りもない。暗い床と、弱い灯り。そして部屋の中央に、深く身体を預けられる椅子が一つだけ置かれていた。
「どうぞ」
母親はためらいながら部屋へ入り、その椅子に腰を下ろした。座った瞬間、身体が深く沈むように見えた。
主人は、椅子の少し横に立った。
私は、藍色の布のそばで足を止めた。
「水瀬さんは、そちらで」
主人がこちらを見ずに言った。
入り口近くに立ったまま、母親を見る。
部屋の奥へは入らない。けれど、離れているわけでもない。
その距離が、今の私にはちょうどよかった。
母親は、椅子の上で両手をゆるく置いていた。先ほどまで食堂で震えていた指先も、今は不思議なほど静かだった。
「何をすればいいんでしょうか」
母親が、小さく聞いた。
「何かをしていただく必要はありません」
主人は静かに言った。
「ただ、浮かんでくるものを、そのまま言葉にしてみてください」
「でも……何を話せばいいのか」
主人は、少しだけ目を伏せた。
「今、何がいちばん怖いですか」
母親の表情が止まった。
母親はしばらく黙っていた。
「真央が……失敗することです」
ようやく出てきた声は、かすれていた。
「受験で、思うようにいかなくて、自信をなくしてしまうこと。あの子が、自分はできない子なんだと思ってしまうこと」
「その怖さは、いつからありますか」
母親は答えようとして、口を閉じた。
沈黙が長くなる。
やがて、小さく息を吸った。
「私も……中学受験をしたんです」
その声は、さっきより低かった。
「第一志望に落ちました。母が、どうしても行かせたがっていた学校でした。私も、そこに行くものだと思っていました。塾でも、先生に大丈夫だと言われていて……」
そこで、母親は少し笑った。けれど、その笑いは乾いていた。
「大丈夫じゃなかったんです」
そう言ったあと、母親はふっと力を抜いた。
深い背もたれに、身体がゆっくり沈んでいく。部屋の弱い灯りの中で、母親のまぶたがゆっくり下りていった。
眠っているわけではなかった。けれど、目の前の部屋ではなく、もっと遠い場所を見始めたように見えた。
「合格発表の日のことを、今でも覚えています」
目を閉じたまま、母親は言った。
「掲示板の前に、人がたくさんいて。母が私の手を引いていて。私は、自分の番号を探していました。何度も見ました。上から下まで。もう一度、上から。見落としているだけかもしれないと思って」
指先も、膝も、肩も、力を失ったように静かだった。
ただ、閉じたまぶたの下で、目がかすかに動いていた。その奥で、何かを見ているのだとわかった。
「でも、ありませんでした」
母親はそう言ってから、黙った。
主人が静かに聞いた。
「そのとき、何がいちばんつらかったですか」
母親の唇が震えた。
「番号がなかったこと……だと思っていました。でも、違うかもしれません」
母親は、目を閉じたまま、ゆっくり首を振った。
「番号がなかったことより、母が何も言わなかったことのほうを覚えています」
その瞬間、朝の真央ちゃんの声が、私の中に戻ってきた。
お母さんが、悲しそうになるから。
「怒られたわけじゃないんです。責められたわけでもありません。母は、たぶん、私を責めないようにしていたんだと思います」
言葉の形はまだ大人のものだった。
けれど、その奥から、別の声がにじみ始めていた。
「でも、黙ったんです」
母親の声が、少し幼くなった。
「手をつないでいたのに、急に力が抜けて。私のほうを見ないで、掲示板を見たまま、黙っていました」
「それが、怖かったんです」
母親の喉が、小さく鳴った。
「怒ってくれたほうがよかった」
私は、はっとした。
今、話しているのは、大人の母親なのだろうか。それとも、あの日、掲示板の前に立っていた小さな女の子なのだろうか。
母親は、目を閉じたまま、深い椅子に身体を預けていた。腕は、力を失ったまま、肘掛けの上に置かれている。指先も、膝も、肩も、眠っているように静かだった。
その身体の静けさとは反対に、声だけが、奥のほうから浮かび上がってきた。
「怒られたら、ごめんなさいって言えたのに。泣かれたら、私も泣けたのに。でも、お母さん、何も言わなかったの」
母親の閉じた目から、涙がひとつ落ちた。
頬を伝っても、彼女はそれを拭おうとしなかった。
「私、どうしたらいいかわからなかった」
その言葉は、真央ちゃんの姿と重なった。
一口だけかじられたパン。オレンジジュースだけが減ったグラス。鉛筆を握る細い指。
母親は、あの日の自分だったのかもしれない。
そして真央ちゃんは今、その母親の沈黙と表情を見ている。
「お母さん、悲しそうだった」
その声に、私は胸の奥が痛くなった。
「私のせいで、悲しそうだった」
それは、真央ちゃんが言った言葉とほとんど同じだった。
「私、ちゃんとやったのに。塾も行ったし、宿題もやったし、眠くてもやったのに。お母さんが喜ぶと思ったから。でも、番号なかったの」
主人は、静かに聞いた。
「そのとき、何と言ってほしかったですか」
母親は、すぐには答えなかった。身体は深く椅子に預けられたまま、ほとんど動かなかった。ただ、唇だけが小さく震えた。
「……がんばったねって」
とても小さな声だった。
「番号がなくても、がんばったねって」
その言葉を聞いた瞬間、私の喉の奥が熱くなった。
「だめだった私でも、見てほしかった」
それは、たぶん、何十年も言葉にならなかった声だった。
主人は、少しだけ声を低くした。
「その子は、まだそこにいるのですね」
母親は、目を閉じたまま、ほんのわずかにうなずいた。
「いる」
幼い声が答えた。
「ずっといる」
「何を待っていますか」
「お母さんが、こっちを見てくれるのを」
部屋の中が、さらに深く沈んだ。
私は、その言葉を聞きながら、母親が真央ちゃんを見られなくなっていた理由を、ようやく少しだけ理解した気がした。
母親は、真央ちゃんの未来を見ていたのではない。
あの日、掲示板の前で立ち尽くしていた自分を見ていた。
何も言われず、見てもらえなかった自分を、娘の成績表の中に見ていた。
主人は、静かに言った。
「真央さんは、その子ではありません」
母親のまぶたが、かすかに震えた。
「真央さんの受験は、その子のやり直しではありません」
母親の唇が小さく開いた。
声はまだ幼かった。
「でも、失敗したら、悲しい」
「はい。悲しいかもしれません」
主人はうなずいた。
「けれど、悲しむことと、その子を見失うことは違います」
母親は黙った。
「真央さんが失敗しないように守りたい。そう思うのは、愛かもしれません。でも、失敗した真央さんを見たくないと思うなら、それは、あの日のご自分の痛みかもしれません」
母親は、何かを言おうとした。けれど言葉にならず、唇だけが震えた。
「私は……真央に、あんな顔をさせたくなかった」
主人は、静かにうなずいた。
「はい」
「でも、私がしているのは、同じ顔かもしれない。私の母がした顔を、今、私が真央にしているのかもしれない」
母親の閉じた目から、また涙が流れた。
「嫌だ……そんなつもりじゃなかったのに」
主人は、何も言わなかった。
ただ、母親がその言葉を聞き終えるまで、待っていた。
少し間を置いてから、主人が言った。
「では、あの日のあなたに、今のあなたなら何と言ってあげますか」
母親の呼吸が、ほんの少し止まった。
「あの日の……私に」
「はい。掲示板の前にいた、その子にです」
母親は、しばらく何も言わなかった。
やがて、唇が小さく動いた。
「……ごめんね」
それは、大人の母親の声だった。けれど、とても柔らかかった。
「ずっと、ひとりにしてごめんね。番号がなかった日から、あなたのことを、ずっと置いてきてしまった」
閉じたまぶたの下から、また涙がこぼれた。
「本当は、あの日、誰かに言ってほしかったんだよね。がんばったねって。番号がなくても、あなたがだめになったわけじゃないって」
私は、息をひそめた。
その言葉は、あの日の小さな女の子に向けられている。けれど同時に、階下で待っている真央ちゃんにも向けられているように聞こえた。
「あなたは、ちゃんとやったよ。塾も行った。宿題もやった。眠い日も、休みたい日も、がんばった」
声が震えていく。
「本当は、合格したから見てほしかったんじゃなくて、がんばっているあなたを見てほしかったんだよね」
部屋の空気が、少しだけ深くなった。
「だから、今、私が言うね」
声が、少しだけ強くなった。
「よくがんばったね」
その言葉は、静かだった。でも、部屋の奥まで届くように聞こえた。
「番号がなくても、あなたはだめじゃない。あなたは、失敗した子じゃない。ただ、あのとき、すごく悲しかった子」
その言葉が出た瞬間、母親の顔がくしゃりと歪んだ。
「怖かったね。悲しかったね」
私は、胸の奥で何かがほどける音を聞いた気がした。
母親は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく言った。
「もう、ずっと掲示板の前にいなくていいよ」
母親の声は、また少し大人のものに戻っていた。
「お母さんが見てくれなかったぶんまで、私が見るから」
その言葉を聞いたとき、部屋の暗さがわずかにやわらいだ気がした。
何かが光ったわけではない。誰かの声が降りてきたわけでもない。
ただ、長いあいだ閉じたままになっていた場所に、ようやく少しだけ光が触れたように感じた。
主人が、そっと言った。
「その子は、今、何を見ていますか」
母親は、しばらく黙っていた。
「……真央を」
小さな声だった。
「真央を、見ています」
主人は何も言わなかった。
母親のまぶたが、かすかに震えた。
「違う」
その声は、ほとんど息のようだった。
「私を、真央に重ねていた」
涙が、また頬を伝った。
「真央は……真央なんですね」
私は、階下の真央ちゃんを思い出した。
桃の器を前にして、母親の背中を見送っていた真央ちゃん。朝、パンを一口だけかじったまま、鉛筆を握っていた真央ちゃん。
「お母さんが悲しそうになるから」と言った真央ちゃん。
母親は、深く息を吐いた。
「私は……あの子を守っているつもりで、あの子に私の続きを生きさせようとしていたのかもしれません」
その声は、ほとんど大人の母親に戻っていた。
「真央は、私じゃない。真央の受験は、私の受験じゃない」
主人が静かに言った。
「はい」
「真央がもし失敗しても……それでも、真央を見ていればいいんですね」
「はい」
「見失わなければ、いいんですね」
「はい」
その返事は、ほとんど祈りのように静かだった。
部屋の中に、深い沈黙が降りた。
それは、さっきまでの重たい沈黙とは少し違っていた。
何かが終わったというより、ようやく始まる場所に戻ってきたような沈黙だった。
私は、藍色の布のそばに立ったまま、足元が少し揺れるような感覚を覚えていた。
あの部屋で起きたことは、前に私が体験したものとは違っていた。
私のときは、胸の奥から、声が浮かび上がってきた。
けれど彼女の口から出てきたのは、もっと幼い声だった。
置き去りにされたまま、ずっと待っていた子どもの声。
あれは何だったのだろう。
記憶なのか。
心の奥の声なのか。
それとも、人がようやく自分を裁かずに見たとき、閉じ込めていた時間が言葉になるのだろうか。
私には、まだわからなかった。
ただ、その問いを胸の中で抱いたとき、あの声が、また奥から静かに浮かび上がってきた。
――見えたものを、急いで名づけなくていい。
私は息を止めた。
声は、それ以上何も言わなかった。けれど、その短い言葉だけで、何かを決めつけようとしていた心が、少しだけほどけた。
まだ、わからない。
でも、わからないまま見ていることも、ひとつの力なのかもしれない。
そう思った瞬間、母親の閉じたまぶたの奥に、幼い女の子がほんの少しだけ笑ったような気がした。
私は、それが本当に見えたのか、自分の想像なのか、判断できなかった。
判断しようとした瞬間、またあの声が胸の奥でかすかに響いた。
――ただ見なさい。
今度のその言葉は、前よりも少しだけ深い場所から聞こえた。
今の一問
翌朝、私はいつもより遅く目を覚ました。
部屋の中には、すでに朝の光が入っていた。窓の外からは、夏の空気と一緒に、蝉の声が遠く聞こえてくる。
身体は少し重かった。けれど、胸の奥にあったざわめきは、昨夜よりも静かになっていた。
顔を洗い、階段を下りる。
食堂では、母親と真央ちゃんが、すでに窓際の席に座っていた。
昨日と同じ席。
同じ朝の光。
同じ食堂。
でも、テーブルの上は少し違っていた。
問題集は置かれていた。計算ドリルも、漢字練習帳もある。
けれど、開かれてはいなかった。
二人の皿には、パンと卵料理、小さなサラダがのっていた。真央ちゃんの皿のパンは、まだ手つかずだった。
真央ちゃんは、パンを見ていた。そして、母親の顔も見ていた。
食べていいのか。
先に勉強しなくていいのか。
あとで何か言われないか。
その小さな警戒が、離れた場所からでもわかった。
母親も、それに気づいているようだった。
けれど、何をどう言えばいいのかわからないらしく、少し不自然なほど明るい声で言った。
「今日は、まず朝ごはんを食べようか」
真央ちゃんは、すぐには返事をしなかった。
「……勉強は?」
「するよ」
母親は、少し慌てて言った。
「するけど、えっと……まず、食べてからでいいかなって」
その言い方が、あまりにぎこちなくて、私は思わず目を伏せた。
母親自身も、照れたように口元を押さえた。
「変かな」
真央ちゃんが、少しだけ目を丸くした。
「変……かも」
母親は、一瞬困った顔をした。けれど次の瞬間、小さく笑った。
「そうだよね。お母さんも、ちょっと変だなと思った」
真央ちゃんは、まだ警戒していた。けれど、その顔に、ほんの少しだけ驚きとは別のものが混じった。
私は朝食を取り、自分の席に座った。
スープを口に運びながら、二人を見ないようにした。見ないようにしながら、やはり見ていた。
真央ちゃんは、パンにバターを塗った。それから、皿の端に少しだけ取ってあった赤いジャムに、スプーンを伸ばした。
少しだけ乗せるつもりだったのだと思う。
けれど、思ったより多くパンの上に落ちてしまい、赤いジャムが端まで広がった。
真央ちゃんの肩が、ぴくりと上がった。
母親がそれを見た。
「そんなにつけたら――」
そこまで言って、止まった。
一瞬、昨日までの空気が戻った。
母親は、自分の言いかけた言葉を聞いているようだった。少しだけ目を伏せ、言い直した。
「……甘そうだね」
真央ちゃんは、母親を見た。
「つけすぎた」
「うん。たぶん、かなり」
母親の声に、少し笑いが混じった。
真央ちゃんは、パンを見た。それから、母親を見た。
「怒らないの?」
母親の表情が、一瞬止まった。
「怒らないよ」
そう言ってから、すぐに付け足した。
「でも、テーブルに落ちたら拭こうね」
真央ちゃんは、しばらく母親を見ていた。それから、ほんの少しだけ笑った。
「うん」
母親も、少し遅れて笑った。
そのあとも、母親は真央ちゃんの手元を見ていた。
急がせるためでもなく。間違いを見つけるためでもなく。
ただ、今そこにいる真央ちゃんを見ているようだった。
そのことに気づいたとき、私は胸の奥が少し熱くなった。
朝食が終わってから、母親は問題集を開いた。
「今日は、まず一問だけ一緒に見ようか」
真央ちゃんが、少し驚いたように顔を上げる。
「一問だけ?」
「うん。一問ちゃんと見てから、次を考えよう」
母親はそう言ってから、照れたように笑った。
「……こういう言い方、慣れないね」
真央ちゃんが、ほんの少し笑った。
「うん」
「うんって言うんだ」
母親が小さく笑う。
真央ちゃんも、少しだけ笑った。
それは本当に小さな笑いだった。けれど、昨日の朝にはなかったものだった。
真央ちゃんは、算数の問題に向かった。
途中で、手が止まった。
「ここ、違うかも」
母親は、すぐには答えなかった。
反射的に何か言いかけたようだったが、唇を閉じた。そして、真央ちゃんのノートをのぞき込んだ。
「じゃあ、ここだけ一緒に見ようか」
その声には、まだ少し力が入っていた。でも、昨日のように先へ先へと押す力ではなかった。
「ここ?」
「うん。ここ」
母親は、式の途中をそっと指で示した。
「くり上がり、ひとつ抜けてるかも」
「あ、ほんとだ」
真央ちゃんは、少し悔しそうに笑った。
「またやった」
母親の指が、ほんの一瞬だけ止まった。
けれど、すぐに力を抜いて、ノートの端を軽く押さえた。
「じゃあ、見つけられてよかったね」
真央ちゃんは、母親の顔を見た。
「怒ってない?」
母親は、少し困ったように笑った。
「怒ってない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
真央ちゃんは、まだ少し疑うように母親を見ていた。
母親は、その視線を受けたまま、少しだけ目を伏せた。
「お母さんも、怖かったのかもしれない」
真央ちゃんは、鉛筆を持つ手を止めた。
「真央が間違えることが」
その声は、小さかった。言い訳のようでもあり、初めて自分に言い聞かせているようでもあった。
真央ちゃんは、すぐには何も言わなかった。
母親も、少し照れたように笑って、ノートに目を戻した。
「……もう一回だけ、ここからやってみようか」
「うん」
紙の上を消す音が、朝の食堂に小さく響いた。
母親は何も言わず、その手元を見ていた。
急がせるでもなく、正すでもなく。ただ、今度はその一問が終わるまで、そばにいるように。
私は、胸の奥であの声を思い出した。
ただ見なさい。
今なら、ほんの少しだけわかる気がした。
見るとは、何もしないことではない。
相手を変えるために見ることでもない。
今ここにいる人を、過去の誰かにしないこと。
未来の失敗にしないこと。
その人を、その人のまま、目の前に置くこと。
母親は、真央ちゃんを見ようとしていた。
真央ちゃんもまた、母親の変化を少しずつ見ようとしていた。
私は、ノートパソコンを開いた。
白石さんへの返事は、まだ送れていなかった。
昨夜までなら、何度も書いては消していたと思う。
軽すぎないか。重すぎないか。期待しすぎているように見えないか。選ばれたがっていると思われないか。
でも今朝は、少し違った。
白石さんは、まだ私を選んだわけではない。正式に決まった話でもない。
それでも、彼は私を紹介したいと書いてくれた。
今あるのは、それだけだった。
まだない未来でも、過去に遠ざかっていった誰かでもなく、今ここにある一通のメール。
私は鑑定文のファイルを開いた。
昨日は、その白さに何度も押し返された。けれど今は、不思議と怖くなかった。
私は、少し考えてから、最初の一文を打った。
まだ起きていない未来を怖がるより、今ここにある小さな手ざわりを受け取ってみてください。
指が、止まらなかった。
うまくいくかどうかを、今すぐ決めなくても大丈夫です。
不安は、あなたが大切にしているものを教えてくれることがあります。
けれど、不安だけを見つめていると、目の前にある光を見失ってしまうことがあります。
今日は、ひとつだけでかまいません。
目の前の人の顔を見てください。
目の前の言葉を受け取ってください。
目の前の一つの問いに戻ってください。
未来は、まだ決まっていません。
だからこそ、人は何度でも、今に戻ることができます。
打ち終えてから、私は画面を見つめた。
週刊誌には少し静かすぎるかもしれない。短い鑑定文としては、まだ整えたほうがいいかもしれない。
でも、その言葉は、少なくとも今の私から出たものだった。
白石さんにどう見られるかだけを考えて置いた言葉ではなかった。
私はファイルを保存した。
そのまま、白石さんへの返事を書いた。
今度は、言葉にあまり迷わなかった。
白石さま
ご連絡ありがとうございます。
まだ正式に決まっていない段階でも、候補として考えてくださっていること、とても嬉しく思いました。
短めの鑑定文を、いくつか整えました。
週刊誌の読者の方にも届く形を意識しながら、私なりの言葉で書いてみました。
ご確認いただけましたら幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
水瀬
読み返して、少しだけ息を吸った。
まだ怖さはあった。
選ばれるかどうかは、私には決められない。白石さんがどう受け取るかも、私には操作できない。
でも、それを理由に、今の言葉を消さなくてもいい。
私は、鑑定文のファイルを添えて、送信した。
画面が静かに切り替わる。
その瞬間、胸の奥にあった小さな固さが、少しだけほどけた。
窓の外では、夏の山が朝の光を受けていた。
母親と真央ちゃんは、まだ問題を見ていた。
真央ちゃんが何かを消し直し、母親が小さく笑う。
その笑いに、真央ちゃんも少しだけ笑った。
昨日までなら、見逃してしまいそうな小さな声だった。
けれど今朝の食堂では、その小ささのまま、ちゃんと明るかった。
私は、その声を聞きながら、保存した原稿のタイトルをつけた。
「今に戻る占い」
少し直接的すぎるかもしれない。
そう思って、別のタイトルに変えようとした。
けれど、やめた。
今は、このまま置いておこうと思った。
昨日までと同じ宿。
同じ食堂。
同じ夏。
何も劇的には変わっていない。
受験の日は、まだ来年の二月一日にある。
白石さんの仕事も、決まったわけではない。
真央ちゃんも、また問題を間違えるだろう。
母親も、また不安になるかもしれない。
私も、きっとまた誰かの言葉に揺れる。
それでも、今朝の食堂には、昨日とは違うものがあった。
一口だけかじられたパンではなく、ジャムをつけすぎたパン。
責める沈黙ではなく、一緒に考える沈黙。
未来に追われる時間ではなく、今の一問を見る時間。
私は、その風景を見ていた。
急いで意味づけなくていい。
正しさに変えなくていい。
誰かを導こうとしなくていい。
ただ見なさい。
胸の奥で、その声が静かに響いた。
私は、今度は逆らわなかった。
ただ、その朝の光の中にいる母娘を、しばらく見ていた。