プロフィール

牧 静(まき しず)
■プロ家庭教師・母親コーチ。元大手受験塾講師。15年以上の塾講師経験の中でのべ3000名以上の生徒を指導。

経歴
■高校卒業後、バンドマン、高級フランス料理店のギャルソン、バーテンダーなどを経験。
■バーテンダーをしているときに、日本のために人生を使いたいと思い、一念発起して大学を受験。3ヶ月の勉強で見事第一志望校に合格。この経験を通して、短い期間に成績を上げる方法を独自で編み出す。
■大学では教育学を専攻。大学在学4年間に1000冊の書籍を読破。さらにアルバイト先のファミリーレストランで開催された全国サービスコンテストでも優勝する。
■大学入学後、日本のために生きるなら政治家だと考え、大学在学中に政治家秘書となる。政治家秘書の経験から、日本を変えるには政治ではなく「人材育成」「教育」が先と考え、大学卒業後プロ塾講師となる。
■その後、塾講師以外にも年間予算100億円2万人規模の事業の事務局を務める。

家庭教師:牧 静(まき しず)の理念

僕は、今でこそ先生と呼ばれる仕事をしていますが、子どものころに優等生だったかというと、まったく逆でむしろ問題児でした。
何事も好き嫌いが多く、興味関心のないことにはまったく手をつけない子ども。図工や算数が好きで熱中して取り組みましたが、書写の時間が大っきらいで、授業中ただ一人だけ一文字も書かずに終わったこともあります。
また、完璧主義で何でも上手にできなければイヤな性格だったので、少しでもケチがつくと投げ出してしまうような子どもでした。
大好きな図工の時間でも、忘れものをして材料がたりなかったら、今までつくったものを全部グチャグチャに壊してしまうほど。とにかく手のかかる子どもだったと思います。

高校時代も好きなことしかできない性格は相変わらずでした。

学区で2番手の進学校に進んだのですが、好きな勉強しかしなかったので、化学が学年トップで英語が学年最下位という高校始まっていらいの成績。
そんな状況だったので、好きな科目がない日は高校にも行かなくなり、しだいに不登校になっていきました。

高校に行かない日は、図書館に行って本を読んでいました。ジャンルは政治、経済、哲学、宗教、神話そして作曲。学校に行った日も授業は受けずに図書館で借りた本をずっと読んでいたように思います。
作曲の勉強を始めたのも高校時代からでした。中学・高校と吹奏楽部でトロンボーンを吹いていたんですが、音楽の勉強をしたくなり、指揮法、作曲技法、和声学などを独学で勉強しました。わからないことを自分で勉強して身につけることができるようになったのは、このときの音楽の勉強の経験が大きいと感じてます。

学校にも行かず、言ったとしても授業中に自分の好きな勉強をかってにしていた高校時代ですが、それでも出席日数と成績的には留年にはギリギリなりませんでした。
高校の卒業のときには、全校でただ一人「進路が決まっていない生徒」。進学でもなく、就職でもなく、浪人でもない、今で言うとフリーターですが、当時はまだそんな言葉もありませんでした。

高校卒業後アルバイトではじめたバーテンダーが面白くなり、自分のお金で渋谷にあるバーテンダースクールに通い、そこで出会った知り合いのつてで新宿のバーで働くようになりました。

新宿のバーで働きはじめてから、一流のサービスマンを本気で目指すようになりました。

勉強のために店を変え、銀座のフレンチ、水道橋の和食会席、中野のイタリアンなど、いろいろな料理やサービス、ドリンクの勉強をしました。ソムリエも資格まではとりませんでしたが勉強だけはしました。ちょうど「失楽園」という映画でシャトー・マルゴーが流行ったときだったと記憶しています。

そんな生活のなかで、僕にも転機が訪れます。
読書はずっと続けていたので、社会問題にも関心が向くようになっていったのです。色々な本を読んでいるうちに、「世の中には困っている人がたくさんいる。目の前のお客様は10万円のディナーを食べているのに、今日のゴハンが食べられなくて餓死していく子どもたちもいる」ということに矛盾を感じるようになりました。
そして、「世界をもっとよくしたい!日本をもっといい国にしたい!」という中2病を発症したのです。このときすでに24歳になっていました。

色々考えているうちに、世の中を良くするために「政治か教育の道に進みたい」と自分の気持ちが固まってきました。そしてそのためには大学に行かなければならないということも見えてきました。

そのときの僕はただのバーテンダー。高校時代に大学受験の勉強はまったくしていません。ですから、なにをどこから手をつけていいのかまったくわからない状態だったのです。
大学に行きたいという気持ちが芽生えてからも、昼は本を読み、夕方から出勤してバーテンダーとして働き、夜は酒を飲んで寝るという生活はあいかわらず。

学生の頃に親不孝をしているので、いまさら大学受験に協力してほしいとは言えません。自分のお金で生活をしながら大学受験をして、合格をしたあとも大学の学費と生活費を自分で稼がなければいけません。
考えれば考えるほど、大学受験は現実ではないように思えてきました。

そんなウツウツとした気持ちでいる僕を変えたのは、佐藤さんとの出会いでした。

知人の紹介でたまたま食事を一緒にしたその人は、明治大学の落研から落語家の真打になり、さらにビジネスマンへの転身をしたという異色の経歴の持ち主でした。この人はメチャメチャ頭がよく、大学受験の勉強方法から受験の作戦の立て方、志望校選定のアドバイスなど、ほんとうに色々お世話になりました。
佐藤さんと何回目かに出会ったときにも、まだ僕は大学受験をするかしないか、同じ悩みをかかえていました。そんな僕に佐藤さんがかけた言葉は次のようなものでした。

「もし人生の2つの道があらわれたら、かならず厳しい道を選びなさい。そうすれば必ず成功できるから」

この言葉を聞いて僕は大学受験を決意しました。

このとき時期としてはもう10月だったと思います。来年の受験にすれば16ヵ月の時間がとれますが、僕は4ヶ月後の受験にチャレンジすることにしました。

受験勉強をするにはバーテンダーという仕事は向いていません。周りの同僚に大学を出ている人はいなく、僕の受験勉強を妨害するかのように、毎日飲みに連れまわされました。 彼らにしたら面白半分だったのでしょうが、僕にはたまったものではありません。

そんな中、助け舟を出してくれたのはバーの店長でした。僕に退職をすすめ当面の生活費まで都合してくれたのです。僕はバーテンダーを辞め、ファミリーレストランの深夜勤務をしながら受験勉強をすることにしました。

働いていたファミリーレストランは高田馬場にあったので、アルバイトのスタッフには早稲田大学の生徒が多くいました。早稲田大学の学生たちは、25歳で大学受験をしようとしている僕に対してとても協力的です。その中に深夜勤務を一緒にしている古藤君がいました。彼は高校を卒業後、鳥取から上京し新聞奨学生で予備校に通い、みごと早稲田大学に合格したという経歴の持ち主です。 彼は本当に親身になって僕の受験勉強を応援してくれました。お金もなく予備校にも通っていなかった僕に、受験時代に使っていた参考書などを惜しみなくくれました。

そんな受験生活を送り、合格発表の日を迎えました。結果は晴れて合格。26歳にして僕は大学生になったのです。

大学時代は生活費を稼ぐためのアルバイトと読書、勉強に日々おわれていました。とにかく勉強がしたく、勉強の質問や相談をよく教授にしていました。仲のよかった教授からは「昭和初期の大学生みたいだねぇ。今どき珍しい」と言われました。ドイツ語の勉強をしていたときには、僕の辞書を見て「君はそんな安物の辞書を使っていてはだめだよ。僕のをあげよう」と、かなり立派な辞書を譲っていただいたこともあります。
大学時代には、とにかく常識を身に着け教養人になりたいと考えていたので、4年間で1000冊の本を読破しました。教科書に載っている本は、全部読むつもりで読書を重ねました。

大学時代には政治家の学生秘書も経験しました。実際の政治の世界を見て、将来のことを考えようとしたのです。僕がついたのは東京都議会議員でした(のちに衆議院議員まで出世してますが)。学生秘書の仕事は有権者の御用聞きがメインでした。後援会の方々や選挙で応援してくれている人たちに、選挙期間ではないときに回り顔を売っておくのです。入学式や卒業式のはしごなんかもしました。式典に参加して来賓の紹介で起立して礼をするだけの仕事です。

学生秘書をしてみての僕の結論は、「政治が間違っているのではない。有権者が間違っているんだ」というものでした。

後援会の挨拶まわりをしていると、話題として出てくるのは税金の利益誘導の話ばかりでした。選挙を一生懸命する人は、議員が当選することによって公共事業が回ってくるので、「自分の利益になる」から応援しているのです。逆に、選挙によって利益がない人は熱心には選挙活動はしません。
「これでは日本がよくなるはずがない。まずはしっかりとした有権者を育てなければいけない」と考えるようになり、僕は教育の道に進むことを決意しました。

大学を卒業して僕は塾講師になりました。

地方の塾だったのですが、塾長の教育哲学に共感し、その人のもとで仕事をしてみたいと考えました。
夢だった塾講師になったのはいいですが、僕が配属されたのは会社の中での一番の看板校舎でした。同僚は授業が上手なベテランぞろい。
そして、僕のスタートはというと・・・

生徒からの評価は最悪でした。
会社としては僕に期待をしてくれて看板校舎に配属してくれたのでしょうけど、ベテランの先生から教わっている生徒たちは先生を見る目も肥えていました。
子どもは思ったことをすぐに口にします。
僕の初めての授業が終わった後に、子ども達はベテランの先生のところにかけより
「先生、あの新しい先生やだ!」
「あの先生の授業わからない!」
「あの先生に教わったら私成績落ちちゃう!」
など・・・

僕は当時30歳になっていました。30歳にして、まったくの新人として扱われる立場になったのです。僕のプライドはズタズタでした。
人生の選択そのものを過ったのではないかとさえ思いました。
しかし、自分で決めたこと。
自分で道を切り開くしかありません。仕事はすべて不慣れなものなうえに、授業が下手な僕には雑務が全て降りかかってきました。僕に与えられた業務だけでも毎晩残業をしなければ終わらない量でした。先輩たちが退社するのを見送りつつ、終わらない仕事を日々こなしていました。
それだけではありません。毎日2~3時間の残業をして仕事をこなした後。僕は毎晩教室に行き、誰もいない教室で授業の練習をしていたのです。
ただ、生徒の成績を上げたい。いい先生になりたいという一心でした。

よく学校の先生になろうとはしなかったの?という質問を受けることがあります。

僕は、教育の道に入ろうと思ったときから塾の先生しか考えていませんでした。それは学校の先生では教育技術つまり授業の上手い下手が評価されないからです。僕は授業が上手い先生になりたかったので、生徒からのアンケート評価があり、講師のランキングがでる塾業界の方が肌に合っていたんです。
当時働いていた塾は、年に2回アンケートがありました。それで1位から順位が並べられボーナスにも反映します。

忘れもしない3年目の冬のアンケートのことでした。
僕はついに全講師200人中9位という評価をいただきました。さらに翌年には校長という立場に出世し、その校長になった校舎での高校受験の合格実績100%を達成したのです。
僕は受験校選定にはこだわりがあり、生徒や保護者からは「志望校を下げさせてくれない先生」と言われていました。その志望校を下げさせない進路指導の結果の100%の合格実績でした。

当時の生徒のエピソードで忘れられないものがあります。

ある女の子が風邪をひいて熱を出してしまいました。

お母さんは
「熱があるから塾は休んでもいいよ」と声をかけました。

すると、女の子は
「もったいないからいく」と言うのです。

お母さんは、娘が何を言っているのか一瞬理解できずに、
「うちはそんなにお金に困ってないよ。塾を一回ぐらい休んでも大丈夫だよ」
と返事をしました。

その時の女の子の返事が忘れられません。
「ううん。違うの。お金のことじゃないの。だって、先生があんなに一生懸命授業をしてくれているんだもん。授業を聞き逃すのがもったいないの」

この頃の僕は、塾講師としてもっとも輝いていたときかもしれません。

僕の人生はなんでこんなになったのか。

「好きなことしかやってない」「直観で生きている」とよく言われますが、それが今の自分を作っているんだと思います。
35歳の頃にもう一度転機が訪れます。政治家の学生秘書をしていたときのつてで、政党の立ち上げを手伝って欲しいという依頼があったのです。
僕は迷いましたが佐藤さんの言葉を思い出し、あえて厳しい道を選ぶことにしました。教育業界から政治の世界に飛び込んだのです。

新しい政党の立ち上げは、とても口では言い表せないほどの激務でした。組織ができていないのに全国の選挙区から立候補させようというのです。スタッフの数もまったくたりず、睡眠時間を削って仕事をしても、ぜんぜん仕事が追い付かない状況でした。
選挙の直前には、僕は体を壊してしまいました。夜中に寝ているときに背中が熱くて目が覚めてしまうのです。眠れない日々の中で、それでも選挙の投開票までは責任感だけでなんとか乗り越えました。

選挙が終わったあとに、僕にはさらに災難がふりかかります。
うつ病になってしまったのです。
朝起きて仕事に行こうとすると、体調が悪くなり起きられなくなる。でも職場に休む連絡をしたとたんに元気なる。そんな毎日を過ごしました。

うつ病は治りかけが一番怖いという話をよく聞きますが、僕も実体験をしました。
ある朝起きると、とてもすがすがしい気持ちで、心は軽く体もエネルギーに満ちあふれていました。「治ったかも」そう思い、僕は元気よく出勤することにしたんです。ところが、通勤のために電車をホームで待っているときに、ふと心にある気持ちが浮かびます。

「このままホームに飛び込んだら死ねるんだなぁ」

このとき、別に暗い気持ちではありませんでした。思いつめた気持ちでも、人生をあきらめた気持ちでもありません。朝起きたときのすがすがしい気持ちのまま「死ねる」と思ったのです。
僕は知識としてうつ病のことを知っていたので、「これがうつ病の治りかけの症状なのか」と客観的に見ることができたので、ホームに飛び込むことはありませんでした。

その後結局、半年間休職をしたあとに、僕はもう一度転職することにしました。

転職先はもう一度塾業界にしました。

教育業界はやっぱり楽しい毎日です。先生という職業は生徒を教える仕事ですが、そのエネルギーは子どもたちからもらっているのかもしれません。 毎日まいにち子どもたちの笑顔を見るたびに、目の前の子どもたちの未来を拓いてあげたい。幸せな人生を歩んで欲しい。そう心から思いました。

年を重ねたからか経験を重ねたからか、子どもたちと日々接している生活の中で、子どもたちの成績に家庭環境が影響していることが見えるようになってきました。 子どもの成績が上がらない原因にご家庭の問題が影響していると。
そこで僕は、保護者面談の場をセッティングして、お母さんに一生懸命子どもへの接し方を変えるようにお願いしました。しかし、ほとんど改善されません。

先生という職業は子どもを相手に勉強を教える仕事です。そのスタンスは「先生が正しい。子どもは間違っている。だから子どもは先生の言うことをきくべき」というものです。
僕はお母さんに対しても、同じスタンスで話をしていたのです。今思えば、どれだけ偉そうな先生だったのでしょうか。そんなスタンスで話をされて言うことを聞く大人はいません。

それでも、僕は家庭環境のメンテナンスによって、子どもが変わると信じていたので色々なアプローチを学び模索しました。

その中で、僕は「コーチング」という手法と出会います。
コーチングの考え方の中で、最も衝撃的だったのが「相手の価値観を否定しない」というものです。先生という仕事は、生徒の価値観をある意味否定する立場ですから、まったくの逆アプローチということになります。

コーチングの手法を学び、僕の考え方、価値観は180度変わりました。

コーチングの手法を学び、僕の考え方、価値観は180度変わりました。そして、コーチングこそ家庭環境を改善する最適のアプローチだと確信するにいたったのです。

実際に母親コーチングを初めてみると、コーチングを受けたお母さんから感謝の言葉がたえませんでした。
「子どものことでイライラしなくなった」
「自分の教育に自信を持てるようになった」
「自分を苦しめていたのは自分だとわかった」
「自分がやろうとしていた教育では、子どもは幸せになれないと気付いた」
なかには、学校のテストの順位が50番以上上がったという報告もありました。

母親コーチングでお母さんの心の軸を整え、お母さんの自己肯定感を高めること。そして、子どもへもコーチングを含めた手法で学習指導を行うこと。この両方のアプローチで最高の教育ができると、僕は確信しています。

まだまだ勉強中で、発展途上の自分ではありますが、子どもたちの未来のため、母親の幸せのため、そして世の中を良くするために、まだまだチャレンジを続けていくつもりです。